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オンライン時代の希望創発研究会

2022.1.28 高橋 俊

新型コロナウィルス発生以降、我々の生活において「オンライン」は欠かせないものとなった。
私は大学で教えているが、大学の授業の多くはオンラインになった。学生とのやり取りは、ほぼすべて画面越し。通信データ量削減のため、カメラは基本オフにしているため、自分のゼミ生であっても顔を見たことがない。たまにリアルで会うときにも、マスク越しなので、「素顔」はわからない。キャンパス内で挨拶されても、誰なのかがわからないことも多い。目だけで個人を特定するのは難しい、ということを実感している。

希望創発研究会も、オンラインで行われることが多くなった。今年度も、チームメンバーとリアルで会ったのは、2回から3回。あとは全部画面越し。寂しいのは確かである。
しかし、それで大きな支障が出ているかというと、出ていない、という感想になる。「やっぱりリアルで会うのがいいですよねえ」と枕詞のように言い合うものの、じゃあオンラインだとまったく話が弾まず、作業もぜんぜん進まないかというと、ひとまずそんなことはないようには思う。
昨年11月、初めてリアルで研究会を行った時、「Aさん、背が高くてビックリ」ということが言われていた。一方私に「あれ、ZOOMでちょくちょくお子さんが映っておられましたよね?」と声をかけていた方もいた。リアルでないとわからない情報もあれば、オンラインだからこそわかった情報もある。今後は、両者の「いいとこ取り」をしながら、進めていければと考えている。
 


希望創発センターへの期待

2022.1.7 栗原 幸男

定年を前にして、どうもこの国の未来が気になる。今、これからの日本を思い描いてみると明るい未来が描けず、なんとなく不安に思う人が多いのではないだろうか?少し古いが2008年の国交省調査では6割以上の人が地域生活の将来に不安を感じていると回答している。2019年の日本財団の「18歳に対する9か国意識調査」では、自国の将来が良くなると回答した日本の若者は10%弱で、新興国の中国、インド、ベトナムの1/7以下である。先進国の米・英は低いが、それでも20%以上はある(資料リンク ※1)。

希望創発研究会は希望が持てる社会を創り出す人材を育成することを大きな目標としていると理解している。今、同じような取組が日本のあちこちでいろんなレベルで実施されている。それらはそれなりの成果を出すだろうが、バラバラな取組をいくらやってもこの国の形は変わらない。政府は、これまで補助金事業で多くの独創的な取組を採択しているが、事業期間が終われば継続は事業者に任されるため、ほとんどの事業はそこで終わる。地方自治体も余力がないので、支援ができない。結果として、膨大な補助金がほとんど無に帰すことになる。90年代初頭のバブル崩壊以降、同じことを30年やって来て、大きな成果がなくてもやり方を変えない。国、国民の借金は増える一方。でも、誰も責任は取らない。これがこの国の形になっている。

希望創発センターも国からの事業支援は終わり、事業運営費は自主調達になったと聞く。これまでの補助金事業と同じにならないためには、事業規模を縮小するのではなく、むしろ拡大して協力者を増やすべきではなかろうか!大いに期待している。

※1 日本財団 Webサイト


海に魅了されて

2021.12.10 石塚 悟史

子供の頃、川や池でよく釣りをしていたが、海のない県である岐阜県出身ということもあり、海へのあこがれがあった。
よく読んでいた「釣りキチ三平」という漫画に石鯛釣りが載っているが、大物釣り、記憶に残る釣りがしたいと思うようになった。
高知に来て、学生時代には年間100日を超えるくらい磯釣りに明け暮れていたことを思い出す(ちゃんと?大学には通っていたつもり?)。
お金はないので、渡船を使った釣りは当然できない。
そのため、重たい荷物を担いで、地磯までよく歩いて行ったものだ。

高知県内で歩いて行ける地磯はかなりあり、地元の人しか知らないところを地元の人に聞いて行くことも結構あった。
落ちたら死ぬなー、1時間歩いてここに来るか?こんなところ降りられるの?と思ったところもたくさんあった(今だったら絶対行かない!)。
磯釣りのポイントがわかる航空写真集が出版されているが、タダで行ける磯釣りポイント集は作れる気がする(意外と売れるかも?)。
釣りをしたいがために高知に移住したという人は周りにも多くいるが、その気持ちはよくわかる。
なんせ、釣りたての魚はうまい!
岐阜で暮らしていたころは、刺身はごちそうであったが、今思うとあんな水っぽいものをおいしいと感じていたのが残念でならない(最近は物流もよくなり、おいしい魚を当然のように食べられます)。

魚をさばくのもうまくなった。
左利きなので、左用の包丁も買いそろえている。
思い出の残る釣りはたくさんあるが、その中でも1番は歩いて行った地磯でのクエ釣り(夜釣り)である。
100日以上坊主の日も結構あったが、2週続けて釣れた時もある。
20㎏オーバーはめったに釣れないが、毎日クエを食べていた時は至福であった(クエはもう食え(クエ)ん)。
内臓がまたうまい!
釣り師でないと、高知に住んでいないと味わえない。

釣りを通じて多くの人と出会った。
その出会いが、高知での生活を豊かにしていると思う(感謝感謝)。


釣り糸を垂れて想うこと

2021.8.2 菅原 誠

東京湾近辺にも7月中〜下旬になると鰹がやってくる。今年は豊漁だそうなので期待大である。例年は沖縄でパヤオ釣りをするがここ2年は行けていないので今年は東京湾外のパヤオでチャレンジするつもりである。鰹は鮮度が命の魚なので釣ってその日のうちに食べるのが最もおいしいと思う。腹側は皮付きのまま刺身にして、醤油にマヨネーズを入れたもので食べる。背側は適当な薬味と一緒にたたいて食べる。アニサキスは経験上新鮮な赤身にいることはほぼないが、鮮度が落ちると内臓から身に出てくるので注意が必要である。心臓もコリコリしていておいしい。鮮度が良ければ生の心臓をごま油とコーレーグースー(沖縄の唐辛子泡盛漬け)につけて食べる。冷凍あるいは時間がたっていれば塩胡椒炒めがおすすめである。内臓は酒盗にする。日本酒ではなく泡盛を混ぜるのが我が家風。ビンタ(頭)は煮付けにするとうまい。本当に捨てるところのない魚である。
そして、藁焼きである。東京でも食べられる店はあるが、鮮度が劣るのか、焼き方が違うのか、高知で食べる方が断然安くてうまい。高知に行けるようになるまでしばらくおあずけである。高知在住の方がうらやましい。

私は基本的にはルアー釣り専門で餌釣りはほとんどしない。のんびり待つ釣りが苦手だからである。ルアー釣りには大きく分けて、遠くにルアーを投げて引いてくる横の釣り(キャスティング)と、足下にルアーを落として垂直に引いてくる縦の釣り(ジギング)の2つの漁法がある。私はキャスティングの方が戦略性が高く好きである。鰹を狙ってサメがかかることもあれば、おいしいスジアラを狙っておいしくない巨大GT(ロウニンアジ)が釣れることもある。私が赤身の魚で一番好きな、おいしいスマが釣れることもある。1投で釣れることもあれば、50投しても釣れないこともある。相手は大自然、人間の浅はかなテクニックや「ゼッタイ釣ってやる」みたいな殺気なんて通用しないのである。そういう意味では、釣りはマインドフルネスを鍛えるためにはうってつけである。

すこしは精神科医らしい話しをしてみたい。マインドフルネスは、元々は仏教の瞑想に端を発した悟りを開くための方法であった。1970年代に入って、「今の状態に集中し、五感を研ぎ澄ませてありのままの自分を受け入れる」ことを目的とした、仏教色を薄めたマインドフルネス瞑想が米国で注目されるようになった。医療の分野でも取り入れられるようになり、ストレス低減法、認知療法、弁証法的行動療法(DBT)などの多くの治療プログラムが開発され、ストレス関連障害、うつ病などの気分障害、パーソナリティ障害、依存症などに対して治療効果が示されてきた。
私の職場では、復職を目的としたデイケアのプログラムの中でDBTを取り入れている。DBTではマインドフルネス、対人関係スキル、苦悩耐性スキル、感情調整スキルの4つについて学ぶ。マインドフルネスでは、自分自身の思考や行動を客観的観察し、その瞬間に焦点をあてて集中することで、断定的な思考(既成概念に基づいた決めつけ)を止め、適切な感情表現や新たな視点での行動ができることを目指す。

話しを釣りに戻そう。風向きや潮の流れ、船の速度、水深や底の形状、根の存在など、様々な情報を五感を全開にして入手し、垂れた糸に集中する。時合いに入れば何をしても釣れるのでどうでもよい。釣れない時こそがマインドフルネスのトレーニングである。苛ついていても、落ち込んでいても、セオリーを繰り返しても、現状を変えなければその日の魚は釣れない。心を開き、あるがままの状態を受け入れ、状況を客観視し、既成の価値観や感情に振り回されず、次にするべき行動を考える。この繰り返しが釣果を生み、このトレーニングの繰り返しが「創発」につながる、と言う考えはいささか強引だろうか。
たかが釣り、されど釣り。海外ではking of hobbyと言われている。あなたも、こころのトレーニングに釣り糸を垂れてみてはいかがでしょうか。四万十川で釣りキチ三平に負けないアカメを釣る日を楽しみに、今夜も一献「ダバダ火振」をいただきます。


『バカの壁』を探す旅

2021.7.9 田村 樹志雄

人生の楽しみの一つは「バカの壁」を探すことだと思う。「バカの壁」は、養老孟司さんによる造語であり、人間が何かを理解しようとする時にぶつかる限界を指している。面白いのは、当人には「バカの壁」がどこにあるのか、分からないという点にある。
「バカの壁」は、頭の中の“境界線”として確かに存在する。ただし、その“境界線”は普段は見えることはない。人は、様々な人物や書籍などに出会うことにより、その“境界線”を突如として見つけるとともに、眼前に“境界線”の向こう側の世界が一気に拡がる。その瞬間がいつも楽しくてたまらない。

この楽しみを増やすためには、「①“境界線”に思いがけず出会う機会を自ら作り出すこと」、「②(言葉とは本質的に“境界線”であることを踏まえ)出会った“境界線”を言葉で書き出すこと」が有効だと思う。
先日、大学院同期生が書いた「コーチング」に関するブログを読んだ。その中では、次のようなことに触れられていた。
・私達の脳には毛様体賦活系と呼ばれる情報の取捨選択フィルターがある。
・このフィルターが何を基準にしているかというと、我々の無意識が「重要だ」と認識しているか否かである。
・「自分には関係ない」と判断した情報はフィルターを通らず脳で認識されない。
・この遮断された部分をスコトーマ・心理的盲点と呼ぶ。

このブログを読み、自身の頭の中が「バカの壁」や「盲点」だらけであることに改めて気付かされるとともに、「バカの壁」を探す旅を続けるエネルギーをもらった気がする。
 


「動禅」

2021.6.28 書動家 俵越山 a.k.a. 越前屋俵太


24年前、榊莫山先生(故人)に出会い、「書は己を解放する道具だ。形に囚われていてはいけない。好き勝手に書きなさい!」との教えを頂き、以来それなりに書を通して自分と向き合ってはいるが、中々どうして上手くはいかない。

書道のあるべき姿とは硯に向かい、心を静かに落ち着け、墨をすることで、やがて無の状態になり、心と体を一つにして書く事だと思うが
私は修行が足りないせいか、いつも心が落ち着かず、うまく書いてやろう、奇麗に書いてやろうと邪念ばかりが先行して、
なかなか純粋な心では書けない。それはまるで、上手く生きようとして、素直に自分らしく生きれない人生に似ていると思った。

何百枚書いて納得の一枚というのが理想なのかもしれないが、そういう、クライアントさんを喜ばせるような努力も出来そうにない。
そういう意味では、書道は静の「禅」なのだと思う。憧れはするが私は苦手である。だから私は動く事にした。

動く事で必死になり、頭が真っ白になって、何をどう書くどころではなくなるような気がする。
そうする事で、初めて無になれるかもしれないと思った。とても、稚拙なやり方だとは思うが、私には合っている。

動きながら書いていて、ある日ふと思った。もしかしたら動の中にも「禅」があるのかもしれない。

後で調べたら「動禅」という考え方が既にあった。
なるほど、だったら動いて書く事で無になるという考え方もありだと思った。

私はそれを「書動」と名付けることにした。

▶ Webサイト『未熟流家元 俵越山』はこちら
 


ぼっちり

2021.5.31 梶 英樹

今から15年ほど前に、環境分野で初のノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイさんが、持続可能な社会の共通言語として提唱した日本語由来の言葉、「MOTTAINAI」。
東京から地域コーディネーターとして高知大学に着任し、嶺北地域(※)に常駐してはや7年が経過したが、私自身、地域連携の中で幸せと持続可能な社会について考える時間が増えている。

ここ数年、高知で幸福度調査に関わっている。どれくらい高知に暮らす人々が幸せなのか、幸せの源泉を明らかにしようという。「都会より田舎暮らしの方がいいよ、幸せだよ。自然もいっぱいあるし。」、などと都会 VS 田舎のような、対立軸の中で幸福を捉えている意見も耳にする。いや、何かと比較しないと幸福は感じられないものなのかもしれない。しかし、対象を比較して「自分はそれより上なのでよかった。安心した、幸せ。」と考えるのは危ういのではと思う。
言い換えると、「自分はあれより低い、だからもっと、もっと増やそう。」という際限のない「もっと、もっと、さらにもっと!」という志向が天井知らずの際限のない成長を追い求めてしまう。「もっともっと」が当たり前になっている、いわば発射したロケットに着地点がない世界で、私たちは幸せや希望を求めている。

高知にきて、「ぼっちりが一番幸せ。」という言葉と人に出会った。「ぼっちり」とは、土佐弁で「ちょうどよい、ちょうど合う」という意味らしい。高知で教わったことの1つは、「ぼっちりと、だが全力を尽くす」。このぼっちりという感覚は私にとってこれからの幸福やドーナツ経済、希望を考えるうえでとても刺激になっている。
「MOTTAINAI」が提唱されて15年が過ぎた。そして「BOCCHIRI」は、高知から発信できるサステナブルな社会の構築に向けたキーワードかもしれない。

※「四国のおへそ」と呼ばれ、四国山地の中央部に位置し、大豊町、本山町、土佐町、大川村の4町村を総称したエリアを指す。


高知県本山町吉延地区の田んぼアート(高知のキャラクター カツオ人間)
 


クワガタも長寿化?

2021.4.2 三橋 明弘


小学生以来のクワガタムシ飼育にハマっている。3年前に「ベランダのサンダルにくっついてたんだけど、ゴキブリじゃないよね?」と妻が写真つきでLINEを連絡してきたことがきっかけだった。
初めはカップ麺の容器に入れていたのだが夜に脱走したので、ペットショップで飼育箱と専用のエサ(昆虫ゼリー)を買ってきてから、徐々に頭数(マニアはクワガタやカブトムシを○頭と数えるらしい)が増えて、現在はコクワガタのオス2頭、メス1頭、ノコギリクワガタのメス1頭を個別の飼育箱で飼育している。

“大人飼育”を始めて気づいたことは、①いかに子供時代にいい加減に飼育していたかということ ②昆虫飼育にも技術進化があること である。
クワガタも多頭数で飼育するとストレスがかかるので、原則、1頭ずつの飼育が原則らしい。これを遵守しているので、広いスペースでストレスフリーに暮らしている。
エサの進歩にも驚く。トレハロース配合とか栄養強化されたエサも販売されている。子供時代は主にスイカをエサにしていたが、実はスイカは水分が多く、下痢しやすくなるらしい。
また、飼育箱内は古くなったスイカの独特の匂いが充満して、クワガタ、カブトムシ飼育の記憶とその匂いが強烈に結びついていたのだが、昆虫ゼリーはいやな匂いがほとんど出ない!

食生活と住環境の進歩のお陰か、オスのコクワガタ2頭は2回目の越冬を終え、3年目に突入、越冬できないはずのノコギリクワガタのメスもまだ元気に昆虫ゼリーを食している。
 


タイプの誤解

2021.3.1 土居 雅夫

ある日、妻と娘と息子の4人で食事に行くことになった。
どこで何を食べるか?自分は「あそこはどう?どこの何がおいしいよ。」と積極的に案を出すが、妻と2人の子供は反応がない。
さんざんああでもない、こうでもないと一方的に話した結果、一軒のお店に落ち着く。
そして、自分は出発の時間の随分前に、準備を済ます。
しかし妻と2人の子供は、ギリギリにならないと行動を起こさない。
常に出発前に、自分が1人イライラして、「早くしろ!」と怒鳴るのがいつものパターンである。
やっとスタート、その時点で既にイラっと来ているが、移動中に、妻がどこどこの何やらが食べたいと言い出し、子供たちも同意する。
ここで自分のイライラが頂点に達する。
前もって決めた店を、途中で変えようとすることが自分にはありえない。
でも、3人にはそれは当然のことなのである。
自分は常に計画を立て、時間に余裕を持ってものごとを行うことを良しとするタイプで、後の3人は、決めることは束縛と考え、最後まで決定を後回しにし、あらゆる可能性を考慮するタイプなのだ。

カール・G・ユングのタイプ論では、人には生まれ持った、心のパターンがあり、全く異なった2つのパターンのどちらかを自然と使っているという。
それは決して、良い悪いではないのだ。
しかし残念なことに、人は自分と違うタイプの人のことが理解できない。
それが人間関係の悪化の原因であるケースをよく見かける。
希望創発研究会のチーム活動では、その様なタイプの誤解は、是非避けたいものだ。


50歳の誕生日プレゼント募集中(^^)

2021.2.5 たかさん

今年の2月、めでたく?50歳になりました。(パチパチパチ、ヒュードンドンドン、パフパフパフ)(笑笑)
いや~皆様有難うございます。
思い起こせば20歳の頃、フツーに歩いていると、明らかに私よりお年を召した方(まあようはおっさんです)から、「オンちゃん」呼ばわりされ、初対面の方に年齢を聞くと「40代後半ですか?」と言い続けられ、やっと見た目と実年齢が逆転してきたかなあと思う今日この頃、皆様お元気にお過ごしでしょうか?

年齢を重ねるにつれ1年が早いなあ~とつくづく思います。まっ仕方のない事ですが、量的にも質的にも?1年という時間の充実度合いを子供と大人で比べた時に、後者は新たな発見や経験、気づき等だんだんと少なくなり、時間の経過が早く感じてしまうのかなあと思います。

また、移動手段によって移動時間は格段に速くなり、情報はネットによってより加速し、バーチャルはよりリアルさを追求し、手間暇かけず利便性や効率優先の社会を構築している気がします。

そんな中、希望創発センタ―の研究会は、高知大学の学生や教員はもとより首都圏や地元の社会人、様々な立場の客員教員が集まって、実体験に裏打ちされたリアル(今年度はリモート開催ですが)な議論を通じて様々な課題の本質を追求し、課題解決の糸口を模索しています。

50歳になって、日常的には新たな発見や気づきは少なくなってきていますが、希望創発センタ―の研究会に参加することにより、刺激を受け新たな発見や気づきを得て、様々な人間関係や信頼関係を築き、充実した50歳を過ごしたいと思います。
 


原理(原点)が大切じゃないかな。

2021.1.21 今村 和也

今村は光触媒の研究をしている。光触媒とは何か?Googleで検索してみよう。多くのWebサイトでは「光が当たると汚れを分解する物質」と書かれている。しかしこれは光触媒の機能のひとつでしかない。今村が簡単に説明するとこんな感じ。

1 光を吸収して、
2 電流が発生して、
3 酸化還元反応を引き起こす。そんな物質。

吸収する光の種類は、光触媒の種類で決まる。実用化されている光触媒のほとんどは酸化チタン(TiO2)という物質であり、紫外光を吸収する。なので、紫外線カットフィルターや日焼け止めに使われる。生じた電流をそのまま利用したら太陽電池だ。そして、酸化還元反応を使って有機化合物(汚れ)を分解している。酸化還元反応が起こるのだから、もちろん分解だけではなく、有用な化合物を作ったり、水素を出したり、いろいろなことに使うことができる。

もし、「光触媒は光を当てると汚れを分解できる物質」、とだけ覚えていたならこれらの可能性は全てなかったことになるだろう。

原理を知るとは可能性を生むことだと思う。可能性を広げること(どう使うか)が「感覚・感性」であり、感覚・感性を磨くために多くのものを見て、経験して、学ぶ必要がある。

これは化学に限った話ではない。希望創発研究会では様々な問題を解決するために、学生・社会人が一緒になって脳から血が出るほど考えている。しかし、「なぜやるのか」を忘れてはいけない。

多くの人に美味しいものを提供したいという夢を持って、レストランを開いたとする。多くの人に来てもらうためにどうすれば良いか考え、ポケモンのグッズをつけたとする。するとたくさん人は来たけど、夢は?とならないか。

原理・原点が大切だと思う。



「皿鉢料理」は人を繋ぐ仕組み

2020.12.1 中島 哲

大きな丸皿に賑やかに盛られた食材の数々、高知の宴席には「皿鉢料理」が欠かせない。高知の女性は酒飲みで、あての心配をせず宴席を一緒にするためという話も聞くが、研究書によると神事後に参会者が一緒にいただく神様へのお供え物がルーツという。ちなみに高知の女性は、都道府県の飲酒習慣の多頻度ランキングでは22番目(男性は27番目)※で、大酒飲みが多いわけでもない。私の周りで印象に残る女性が多いのは僥倖に感じる。 
※(一社)ストレスオフ・アライアンス2019年調査

神事後の宴席は各家で開かれ、誰が何時どこに行ってもお客としてもてなされた。特に自然環境の厳しい四国山地中央の嶺北地域では、その自然から糧を得て生き抜くためには多くの知識・技術の分掌と確実な継承が必要で、人々は繋がり合わねばならなかった。宴席はそのための手段で、「皿鉢料理」は重要なアイテムだった。また、13の部落からなる嶺北の東豊永地区では、盆踊りは部落毎に日を違えて13回行われ住民は連日ハシゴをした。このような徹底した集団化の取り組みは、濃密な人間関係を育み、四国山地と黒潮踊る太平洋で閉ざされた高知で浸透して独特な地域文化を生みだした。

職場においても働く基本は人の繋がりだが、ベースとなるコミュニケーションは、コロナ禍に伴うデジタル化の急進展で大きな進化を遂げた。同時に、技術では超えられないコミュニケーションが存在し、職場活力の源泉となる価値を生んでいることも再評価された。ワイガヤが生み出すクリエイティビティ、口ほどにモノを言う目による意思伝達、人との寄り添いで感じる温かさ・安心感などである。
このようなアナログなコミュニケーションは、一度棄損されると再生は容易ではなく、職場の在り方・働き方改革が進む中で存続させ、活かしていかねばならない。ポイントは、価値認識の組織内での共有化と、持続的に実践していく仕組みづくりで、その生きた事例が取り組みを地域文化として昇華するまで高めた高知である。

高知の空気を吸い、文化の表徴の「皿鉢料理」を囲んで杯を交わしながら、これからの人の繋がりについて考えたい。
 


生き物の創発

2020.11.4 鈴木 紀之

「創発」って何だろう? 聞き慣れない言葉だし、意味がよく分からないと感じている人も多いと思う。
ところが、生き物の住む世界は「創発」であふれている。

自然界は過酷な競争社会だ。どの生き物も「利己的」で、結局のところは自分のことしか考えていない。そうして進化したタイプがうまく子孫を残して今を生きているのだ。だから、生き物たちが遠い将来や生態系全体を見渡すことはない。

しかしおもしろいことに、そうやって個々の生き物が競争にさらされると「多様性」が生まれることになる。個性と呼んでもいい。みんな同じことをしていたら、競争が激しくなってしまうので、それを避けるような進化が生じるからだ。

結果として、集団全体としてはさまざまな資源を効率よく利用するようになる。異なるタイプが異なるエサを食べて暮らす「すみわけ」は、自然界における普遍的なパターンだ。個々が独自の道を歩む多様性が、集団の利益の源泉となる。

ここで重要なのは、個々の生き物は集団の利益を目指しているわけではない、ということだ。競争の副産物として多様性が生まれ、生態系のバランスや種の繁栄がもたらされる。あくまでも進化は先を見据えない。結果論なのだ。

これこそが「創発」である。始めから目的にしていたわけではないが、個々のパーツからは期待できなかったことを全体として成し遂げられるようになる。

自然界の論理がそのまま人間社会に当てはまるわけではない。しかし、多様性や創発が生まれる仕組みを理解し、チームワークに応用すれば、個の限界を突破し、想像もしなかったアイデアに出会えるのではないだろうか。
 


スーツからエプロンへ

2020.8.6 加藤 真
 
表題は、NHKTV シブ5時(2018.4.23放映)で私が紹介された際の新聞の番組欄のタイトルです。
「何故、高知大学に行っているの?」とは未だに一人として聞かれることはないですが、「何故、保育園に行っているの?」は今でも良く聞かれます。
「異なった環境に身を置きたかった」「保育士さんの実態を知りたかった」などと述べますが、実は、グランドシッター(保育補助民間資格)認定を考えた方の講演を聞いて、衝動的に二日後の育成講座に申し込んだことでお分かりと思いますが、余り深く考えたわけではありません。よく「子供が好きなんですね?」とも聞かれますが寧ろそんなに好きなほうではなかったと思います。
人の目を気にして、エプロンで散歩に付き添うのが苦痛であった私が、今では養成講座にエプロンで登場するようになり、ようやくタイトルに追いついた感じです。
 
0~5歳までの約60名を預かる保育園で、大人同様に人を見る園児、個性と集団規律のギャップなどに悩まされる日々です。一方で、毎回想定できないことのオンパレードで、会社に慣らされた私にはとても新鮮な刺激で、通勤が苦でなくなりました。今は、勤務開始時に0歳だった園児が卒園するまで続けたいと思っています。園側から必要なしと言われないように、健康に留意してあと三年頑張ります。
そして、その後は更に「エプロンから〇〇へ」を実現したいと思ってます。
三年連続サンタクロースをやってます。一年目は誰にも気づかれませんでしたが、流石に三年もやると一部の園児にバレました。声のトーンも落とし、片言の英語しか話さない様にはしたのですが、声やお辞儀の仕方などでわかった様です。
恐ろしきは保育園児です。
 

田舎の風景

2020.7.15 岡田 かつみ
 
私が三年間住んでいた場所、「四万十町大正」
大正地域の人口は約2,400人、面積約199k㎡。山間部に位置し、面積の大半が山であり、山の裾野と四万十川に挟まれた小さな平地に集落を築いている。今回は、その小さな町を紹介したい。
 
そっと目を閉じると、川のやさしい流れの音と鳥たちの声・・・思わず現実逃避したくなる環境・・・コンビニなんて便利なものは無いが、近所の方々からいただく野菜や漬物などなど、町そのものが無料コンビニ化している。地元では小さな子どもからお年寄りまで、みんなが知り合いという環境で、すれ違う人には必ず挨拶をする。・・・それが結果的に知り合いになり交流が生まれる。ここには人と人とが支えあっていく環境がある。
 
夜の町へふと出かけてみる。町中には居酒屋が2軒とスナックが2軒。居酒屋の暖簾をくぐると、そこには馴染みの客ばかりで、一人で行っても、一人で飲むことはまず無い。
スナックの店主の一人は80歳を超えてなお現役。たまに数人で飲みに行っても、三人での会計が合計金額で5,000円を切る驚くべき価格!我々会社員にとって、まさに神スナックである。
わたしにとっての第二の故郷「大正」は、「体の中を空気が通っているなぁー」と感じられる場所である。
田舎では人と人との交流が自然に生まれる環境がある。田舎には科学的な「便利」さは無いが、心にとっては「便利」な環境ではないだろうか。

そういえば、余談ではあるが、この5月に自宅近くの小さな川で蛍を見かけるようになった。一時は住宅化が進み、人口も増え、川にも度々ゴミが落ちているのを見かけ、河川環境の悪化に伴い蛍を見ることも無くなっていたが、住宅増に伴い河川が整備、排水環境等も改善されたのが良かったのか、川の水が美しさを取り戻しつつあるようだ。
 

「希望」とはなにか?

2020.7.1 東北大学 高度教養教育・学生支援機構 佐藤 智子

 現代社会においては「希望」を見出すことが難しい。そのように言われても、もちろん、その真偽の認識や解釈は人によって多様であって良い。しかし、高知大学に希望創発センターが設立された背景には、おそらく、少なからず未来に「希望」を見いだせない多くの人々の不安や問題意識がある。
 高知には縁も所縁もなかった私が、高知大学希望創発センターに関わる機会を得たのは、なんとも不思議な巡りあわせである。ただ、私自身がこの希望創発センターに関わることを決めたのは、現代に絶望を感じていたからでもなければ、閉塞感を打ち破りたいという使命感に燃えていたからでもない。ただ素直に「何かよく分からないけど、よく知っているはずの大事な何か」がそこにあると直感したからである。換言するなら、「何か新しくて面白そうなことをしようとしている」という期待感から便乗してみた、という事なのかもしれない。
 
 それにしても、センター名にも掲げられている「希望」とは、何だろうか。「よく分からない何か」から「希望」を見出そうというのは、考えてみれば奇妙な話である。
 私にもかつて、人生に絶望を感じた経験がある。それは自分の努力では何ともならない悲劇であり、ただただ悲観的に運命を受け入れなければならない状況だった。懸命に生きようとしている命が消えゆく様を目前にして自分には何一つ為す術もないと痛感した時、あるいは、直面した困難を乗り越える可能性がもはや微塵も残されていないのだと悟った時、人は「絶望」する。しかしそのように絶望した私にも、ある時、再び「希望」が芽生えたのである。時間はかかったが、未来が現在よりも良くなると信じられた時に、自分にもまだ何かができるという感覚を取り戻すことができた。それが、私にとっての「希望」の実体験でもある。
 然るに「希望」とは、「まだ私たちには何かができる」「私たちにできる何かがある」と思える状況から生まれるものである。それは「自己効力感」と表現できるかもしれないし、「レジリエンス」とも言えるのかもしれない。
 
 そして、このような感覚を支えるものこそが、知性であり、知の体系である。無論、洞察なき試行錯誤からも新たな発見が生まれることはある。それも1つの探求の形態かもしれない。しかしいま、私たちの手中には、人類が長年にわたって築き上げてきた知の体系がある。そして幸いなことに、それを活用する知識やスキルも持ち合わせている。使わない手はない。
 「希望」とは、神の啓示のように天から与えられるものではない。知性を基盤として、自ら構築するものである。確かに人類には楽観的な人も悲観的な人もいるかもしれない。しかし、私たちが構築すべき「希望」は、個々人の特性の楽観的・悲観的とはまったく別の次元の話である。想定の内容が楽観的であろうが悲観的であろうが、その想定の上に「私たちには何かができる」と感じる時、それが「希望」なのだろうと思う。
 
 この希望創発センターの立ち上げ時から関わらせていただいているが、未だに「何かよく分からないが、よく知っている何か」の全貌は見えない。しかし、おそらくそれは、このままずっとそうであり続けるのだろう。未知なるものへの確信の感覚こそが、確かな「希望」へと向かって進んでいる証であるに違いない。
 

新型コロナウイルスがもたらすもの

2020.6.10 元田 勝人
 
世界中がコロナ一色である。希望創発センターの活動も、大変残念ながら活動の中断を余儀なくされた。私が勤務する「協会けんぽ」は政府系医療保険者という性格上、緊急事態宣言期間中も6割の職員が出勤して勤務する所謂「エッセンシャルワーカー」集団であり、職員や関係者の感染が一番心配であったが、幸い現在まで感染者を出さずに済んでいる。
 
希望創発センターは、当たり前を疑い、社会課題を多角的な視点から掘り下げ、俯瞰し、そして多様な人々の知恵と要素を結集しこれまでにない新しい「モノ」を創り出すことを目指している。それは高知という容器の中で、「三密」が創り出すとも言えるが、密が容易でない現状はとても残念である。
 
今回のコロナ禍を医療保険者という“親戚筋”の眼で見ていると、日本社会の抱える課題や希望が垣間見える気がする。
“司令塔がいない”、“意思決定の根拠が不明”、ICT活用が極めてお粗末、等々。「協会けんぽ」の内外(医療社会)で日常的に起きていることがそのまま繰り広げられている。一方で、テレワークの活用やリモート診断、基礎疾患予防の重要性認識など、これまで遅々として進まなかった案件が一気に動き始めた。
気がかりは、今起きている事実や実施施策が今後分析・検証されて、それを踏まえたより良い方向に進むだろうか?という点である。「新型」である以上よくわからないのは当然で、専門家の見解や対策もある意味すべて「仮説」である。仮説は検証されてこそ次につながる価値を持つものである。仮説の屋上屋を重ねる愚は避けたいものである。
もう一点は、社会が極めて多様な要素、因果関係、トレードオフ等で成り立っているという前提の再認識である。グローバル化は感染スピードを格段に速め、医療用器材や医薬品の安全保障を揺るがす。社会活動を抑制すれば多くの人が失業やメンタル不調に追い込まれる。一つに過敏に反応すれば陰も濃い。物事を俯瞰的に理解して方向性を見失わない。そして様々な人や要素を組み合わせて新たな仕組みや「モノ」を創りだし、事態に柔軟に適応していくことの重要性を実感させられる。
 
未来はこれから創られる。希望創発センターの志と成果をより早く社会に広めたい。
 

希望創発センターでの出会い

2020.6.3 高知大学 地域協働学部 市川 昌広
 
一昨年から希望創発センター(以下、センター)に関わっている。それまで付き合いの無かった企業の方々との出会いに刺激を受けている。
高知大学(つまり高知県)に来てから10年余りが経つ。当初から、大豊町のいわゆる限界集落が点在する地区に通ってきた。少しでも地区が元気にならないものだろうか。集落調査をしたり、学生を連れて実習をしたり、専門の異なる教員たちを誘っていくつかの実践を試みてきた。だが、目に見えるような成果はなかなか上がってこない。10年ほどがたつと次第にマンネリ化してくる。

 
センターに関わるようになったのはそんな頃であった。しばらくすると、センターのスタッフになっていた東京の企業人を大豊町にお連れする機会が何回かあった。
急峻な四国山地の真っただなかに点在する集落。谷は深く削られていて平らな場所はなく、人は住めない。中腹のややなだらかなところまで上がってきて棚田や家々が広がりはじめる。そういった集落は、谷を挟んだ向かいの斜面に、そして遠くまで連なる山並みのなかにぽつりぽつりと点在している。
東京近辺にはありえないそうした景色を企業の方はしばし無言で眺めている。お茶を飲みながら住民の方々と語らう。こうした場に身を置くことによってアイディアが浮かんでくるのだろう。
たとえば、東京での会社勤めに精神的に疲れた人のリハビリの場にならないだろうか、そんなことを言いだす。その発案者は、さっそく大豊町では宿泊場所や受け入れ者を、東京では参加者を探し始めるなど、アイディアの具体化を進めていく。大学人にはとてもまねのできないすばやい動きだ。

 
異なる「文化」を持つ人と協働することにより、希望が生まれ、コトが進む。私にとってはそんな経験である。企業人にとっても同様、異なる「文化」をもつ人々、異なる風土に触発されたということになるのだろう。
多様な「文化」や風土が出会う場であるセンターを、希望を見いだす場としていきたい。
中腹に広がる集落(高知県大豊町)
 

感染拡大の危機的な状況においても『希望』を

2020.5.7 松田 弥花
 
本文を執筆している現在(2020年4月末)、世界中が新型コロナウィルスに悩まされている。多くの人が苦しみ、命が奪われ、不安な日々がもたらされている。私自身、この数ヶ月間、感染拡大を避けるために気を張って生活を送っている。すでに「コロナ疲れ」という言葉が社会に定着しつつあるほど、不安で苦痛で過酷な日々を皆が過ごしている。
 
一方で、この危機的な状況においても、地域を超え、領域を超え、国境を越えて助け合おうとする人びとの前向きな姿があるのも事実である。医療関係者や専門家などの絶え間ない努力により、回復する人がいたり、治療薬の検討が進んだりしているのは、国際レベルでの協力態勢があってこそである。私が一市民/一生活者としてできることは、職場でオンライン授業のやり方について情報共有したり、これまで買ったことのない地域産物を購入したりすることくらいだが、それでも、新たな知識や関係性、ネットワークが生まれることに有り難さを感じている。
 
「このような気持ちを大切にしたい」と強く思わせてくれた記事を紹介したい。たまたま見つけたスウェーデンの記事で(ちなみに私の専門はスウェーデンの社会教育・生涯学習)、スウェーデンの「民衆教育(Folkbildning)のパイオニア」の一人と呼ばれる、イェスタさんのインタビューが掲載されていた(イェスタさんには、約10年前にインタビューさせて頂いたことがあり、とても素敵な方だった)。見出しには、「現在は困難ですが、コロナ危機は社会に何らかの前向きな変化をもたらす可能性があると私は信じています」と書かれている。イェスタさんは現在106歳で、スペイン風邪をはじめ、これまで4回のパンデミックを経験された。それらの経験から、危機の中で人びとが助け合い、つながりを形成することに希望を見出していることを語ったそうだ。※1
 
危機的な状況であっても(むしろ、だからこそ)、絶望するのではなく、皆で力を合わせて「希望」を見つけていきたい。
 
※1 スウェーデンの日刊紙「Aftonbladet」のWebサイトで記事をご覧になる場合は、検索サイトgoogleに「Aftonbladet 2020/04/18 Gösta,106,」を入力し、検索ください。2020年5月7日現在。
 

山歩きのはなし

2020.2.25  大石 達良

趣味は山歩きということになっている。というわけで「山歩きって、何が楽しいの?」と聞かれることがある。で、考える。何が楽しいんだろう。新緑や紅葉の木々、小鳥のさえずり、澄んだ空気やおいしい食事、頂上に着いた時の達成感、危険な場所でのハラハラドキドキ、道に迷った時の冷や汗、一人きりの心地よい孤独感、友人と歩きながらのお喋りなどなど。うんうん、楽しいことだらけじゃないか。

でもそこで、どれが一番かと聞かれたら、ちょっと答えられない気がするし、更に真剣に考えてみたりすると、山歩きの本当の楽しさって何なんだろう、などと思ってしまう。いやいや、危ない、危ない。

結局のところ、山の中を、ひたすら歩くことが好きなように思う。山の中にいると、時の流れが驚くほど早い。一日、6時間とか8時間とか10時間とか、ときにはそれ以上の時間を歩く。技術が要らないお気楽コースを、ただただ歩く。山の中でこんな長い時間何をしていたんだろうと思うこともある。

自分には山の中を歩く過程こそが楽しく重要であり、それは希望創発センターの研究会において考えたり議論したりする過程が重要であることと似ている、と最後にそれらしいことを記してまとめておこう(えっへん)。と言いつつも、やっぱり正直、頂上まで登らないと悔しいし、山頂での山ごはんの後に余は満足じゃなどと言ったりしたい。まあ、俗人だから、これでいいのだ、多分。

 


笑顔でいよう

2020.2.9 木綿さん

「ジローさん」の福笑いKISOUコラムを読んでると、うきうき楽しくなりぷっと笑った。
あれ!笑うことだんだん減っているなぁと思う自分がそこにいた。

考えごとが増えたせいかな?
こどもの頃は、遠足の前日50円でお菓子を買うのが楽しかった。運動会の前日は、わくわく・にやにや眠れなかった。いつも笑顔だったように思うが・・。
ま!今からでも遅くない笑顔でいよう。

そのとき.
笑福亭 鶴瓶さんがテレビで人生には“縁”“運”“ツキ”が大切だと言っていたことを思い出した。
一歩踏み出すことで、多くの人と出会いができ、よい友達や環境がを呼び、今までとは違ったツキがまわってくると。 その言葉大切にしよう。

今.一歩踏み出せているか自分に問う。
昨年、高知大学希望創発センターに関わることで、多くの人と出会い、多種多様な考え方を知る機会を得ている。とても発見が多く、仕事でも役立っているように感じている。
でも、まだ途中。。 社会に届けるめずらしいおくりものはなんだろう・・。

このご“縁”を大切に、笑顔を忘れず、2020年もすすんでいこう。


付録)
このお正月、五台山の竹林寺に行った。
初詣でのおみくじは大吉!ばんざい。ブチっときれないよう慎重に結んだ。 運がいい。
笑顔になる。

 


わたしAB型です

2020.1.27 えんちゃん

希望創発センターの特長のひとつ多様性の「多」って何個のこと?
AとBでAB型だし、サーロインとヒレがあるからTボーンステーキがお気に入りだし、とりあえず、2個以上と答えておきます。

18歳になって大学の学部を選ぶとき考えました。人間はよくわからないから人を相手にするのはパスして、コンピュータならちゃんと勉強すれば分かりそうだから工学部の情報系にしよう。大学に入ってすぐ、数理モデルで表現することを学んで思いました。そうそうこういうのいい!

そのままちょっと長め大学生活を終えて、高知大学に就職して、地元の大学に転職してもまだ教員です。
たしかに、数理モデルを研究したり微積分の講義をしたりはしていますが、それにしてもなんで人と関わる教員?それを避けて工学部を選んだはずなのに。いつのまにか人好きになってきたどころか、わからなさは指数的に増加して、ひたすらエラー多めのトライアンドエラーです。それでも人間相手のわからない方を排除もしないのは、数理モデルというわかりそうな方1つだとなにか物足りない気がするから。

とある宴席で、友人Aに「(よだれをたらす犬のジェスチャー付きで)君な、口を開けば色気も知性もダダ漏れやで」と言われたわたしに、友人Bは「えんちゃん、色気も知性も醸しだしてなんぼやで」と。なるほどね、出力に2つの捉え方があるのね。ここでは2つ目に救われたから、やっぱり2つは要りそうです。

 


2020 ジローさんのお正月

2020.1.8 ジローさん

12月26日 昼の五反田で、人事仲間とピザを食う。
12月27日 芥川賞受賞作『おらおらで ひとりいぐも』を読み終える。
12月28日 平野啓一郎の「スロー・リーディング」。参りました。
12月29日 庭を掃く。車をみがく。ついでに床屋に行く。
12月30日 車で買出し。孫向けのゲームを探す妻から、なぜか一言。「福笑い作ったらー」。
       写真がその成果物。やりがいなんて、どこにでも転がっている。

12月31日 人事本2冊、読み終える。良かった。『女神の見えざる手』をAmazon プライムでみる。
       毒をもって毒を制す、米国女性ロビーストの物語。結末に仰天。
1月1日元旦 初日の出の前のラムの散歩。ラムといっても羊ではない。ラムと私は、今年もワンチームだ。
       「明けましておめでとうございます」。妻と二人で交わす酒、つつくお節。
       わがふるさと上州路は今年も「ニューイヤー駅伝」でにぎわっている。
1月2日   正月の嵐、到来。わが家族、総勢12名+犬2匹。
       飲む飲む飲む食べる食べる食べる笑う笑う笑う。「福笑いつい忘れそうになった
1月3日   今日も「箱根駅伝」から目が離せない。冬はマラソン練習に明けくれた中学時代を思い出す。
1月4日   夜、カレー。小さい頃、誕生日のご馳走は肉入りカレーだった。
1月5日   昨夜から読みだした『ハーメルンの笛吹き男』にはまる。
       1284年6月26日、130人の子どもが突然ドイツのハーメルンで失踪(実話)。

さて、今年はどんな物語が待っているか。どんな物語を作ろうか。
楽しみでたまらない。

 


「人(ヒト)」を再生するもの

2019.12.23 高知大学 自然科学系理工学部門 長﨑 慶三

大した武器は持たない。が、今の仕事力を支えてくれている根源は、まごうことなく中学時代に叩き込まれた「国語力」にあると断言できる。書く力、読む力、伝える力、売り込む力。四十年以上前、それらを僕に教えてくれたのが、恩師・平井久義先生(現在83歳)だった。

このたび、彼の自費出版本「よみかき心得帖」が発刊された。その背景にあったのは、かつての教え子たちによる強力なサポート。ある者は師を鼓舞し、知恵を形にして遺すよう熱烈に説く。ある者は編集に、ある者は寄稿に。再現授業の企画・実施、ガリ版刷りのテキスト化、題字、カット、著作権の調整、そして製本。凡そ必要な全ての貢献が、かつての同級生たちから寄せられた。「先生に貰うた国語力のお陰で今を過ごせとるんじゃ。」そんな思いの奴等ばかりだった。

巷には、子供たちの読解力の低下を嘆く声。あんたの力が要るんじゃ、と誰かに言われることが如何に人生の中で重要であることか。出版作業に明け暮れた2年間は、老齢の恩師にとって「再生」の時間でもあったと思う。出来上がった本は、今や僕の講義の中で欠かせない教材だ。大学生相手に読み書きの基礎?学生たちはまず訝る。でも講義が終わる頃、全員がその意味を知る。人生を戦っていく上で、国語力が如何に重要な武器であるかという事を。

大学図書館と希望創発センターに、この本を置かせていただいた。使命感が人を再生すること。それにより智恵が時を越えて繋がること。「よみかき心得帖」は、そんなささやかな奇跡を体験した教師と教え子たちの物語でもある。是非ご一読いただければ幸いです。

【図説明】よみかき心得帖表紙。HBは当時の平井先生のあだ名「ヒラブー」の頭文字。挿絵左は女子全員による体育祭のメイポールダンス。男子一同は、随分と鼻の下を長くして、好きな子が踊る姿に見惚れてたもんだわ。

 


桜のきずな

2019.12.9 ハルちゃん

最近と言っても、もう1ヶ月以上前のことですが、日本中を熱狂させたラグビーワールドカップを思い出すと今でも心が震えます。ご存じのとおり予選リーグは、ロシア、アイルランド、サモア、スコットランド戦を全勝で通過して、4年前のワールドカップで奇跡の勝利を上げた南アフリカに前半は、3対5で善戦しましたが、最終的に実力及ばず負けました。

熱狂的なラグビーファンではなかったのですが、なぜこんなに感動したのだろう。野球の世界選手権では感じない、サッカーワールドカップの感動ともちょっと違う感動。とても不思議に思い、考えました。

第一に、このワールドカップのために、選手コーチたちは、そのすべてを捧げて準備してきたこと。長期合宿、自己の限界まで心身を鍛えるハードワーク。第二に、数年前まで全く歯が立たなかった圧倒的に強いTier1の国々に挑戦するための戦略をチームの血肉になるまで作り上げたこと。第三に、31名の代表選手のうち、約半数が海外からの選手たちで、桜のジャージを着て君が代を唄っていたこと。第四に、最後まで戦うことを諦めない全力のプレー。

人生の全てを賭けて打ち込むことがある幸せ、強敵に挑戦する素晴らしさは、もちろんですが、僕が一番と思ったのは、ラグビーという競技が国の代表として外国人を排除しない姿勢がすごい。ダイバーシティの極まりではないでしょうか。

希望創発センターの研究会活動が、ラグビーワールドカップと同じくらいの感動を得られる場にできれば、最高と思います。参加者それぞれが、本業(本科)を持ちながらの高知大学の様々な学部大学院の学生と高知県内企業、東京を中心とした企業からの社員たちが、社会課題について研究し、事業化提案をする立付け。そこには、ラグビー日本代表のように、自らの頭を限界まで鍛えることができます。学生・社会人それぞれの良さを活かすことができます。そして全力で1年間を走り抜けてほしいと思います。
 


うどんが食べたい

2019.11.29 西村 太助

1世紀ほど前に、言葉・音に紐づく意味は、諸々の背景に応じて異なるという整理がなされたらしい。
確かに、決め事の場において、双方が同一の母国語を使用していても、相手方の想いや理屈を正しく共有するためにはそれなりのコストが必要だし、その逆も然りだなーと感じる。
あれ、なんでそれをコスト≒めんどうと捉えているんだろうか。

些細な決め事から重要なものまで、相手や集団の想いから理屈までを正しく共有して行う場合と、そうではない場合を比べると、前者のほうがより良い合意、かつその後のチームワークにプラスになるはずだ。ふと、家庭における自身を思い返すと連れ添いには頭が上がらない。
コスト≒めんどうを改めるためには、決め事のプロセスは勝敗決定となる討議ではなく勝敗のない対話であり、それはより良い合意とチームワークを引き出すための方法であるとの整理が必要なのかもしれない。まて、その前には勝敗のない対話の意味の共通了解が必要で、さらにそれを機能させるには信頼関係の構築が必要だ。

「週末にうどんが食べたいんだけど、対話の意味の共通了解を行うとともに、信頼関係の確認を行おう」
なんだかしっくりこないぞ。一般化するには、議題に対する当事者の情熱や重要性、当事者同士の関係性や交換する物、さらに文化的な背景などについての整理が必要だ。
さて1世紀ほど前の知恵と以降の社会経験から導かれる示唆を使いこなせているのだろうか。我々の人間性がそうさせるのではく、そうさせないと未来に向かって言い切りたい。

でもきっとうどんが食べたくなるんだろうなー。今回はどう折り合いをつけようか。

 


クッキングドリフトを楽しむ

2019.11.12 三木 克哉

気が付けば、単身赴任13年目。新潟、姫路、東京と続き今は大阪。
自宅は京都と奈良の境目なので通えなくはないのだけど、帆船模型工房に籠る生活から抜けられない。
罪滅ぼしに帰ったときは一日中庭師と料理人と化す。今や料理は2番目のディープな趣味になってしまった。

そういえば大輔さんのコラムをパクると、料理もデザインとドリフトやなあと思う。料理の基本は出来上がりをイメージし、食材を揃え、レシピ手順を考えるクッキングデザインから始まる。ところが食材調達に出かけると買え買えと誘惑する想定外の食材たち。ついつい誘惑に負けて買い込んでしまう。さてさてこれは新しい出会いやわな。ここからが楽しいドリフトの世界。食材だけでなく味や色味を感じながら、途中でレシピからどんどん離れオリジナル化していく。失敗の恐怖と闘いながら挑戦するワクワク感。たまーに?カミさんからダメ出しされるけど、ずいぶん成功確率は上がったと思う。失敗を最小限にごまかす術も覚えてきた。なんだか人生に似ているような。

今日はイングランド南西部の伝統料理コーニッシュパスティに挑戦。本当は打倒大英帝国を願って準決勝戦を見ながら食せれば良かったのだけど。 そういえば形はまさしくラグビーボールやん。肉はラム肉にして、四万十のドライトマトを使って、形はミニサイズにしてと、デザインは出来た。これから買い出し。さて成功するか?

・・・4時間後・・・ 味はいいけど、触ると崩れる。リベンジします。

 


楽しむ?頑張る?

2019.10.29 波多野 慎悟

~好きな言葉~
「おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり」
私の地元、山口(長州藩)の英雄・高杉晋作の辞世の句です。
意味は「面白い世の中にするのも、しないのも、自分の心次第」と言ったところでしょうか。高杉晋作が詠んだ上の句だけを取って「世の中を面白くしてやるぜ!」っていう風に読み解いても、これはこれで気概が見られて良いと思います。

「Enjoy Chemistry!」
私の恩師のうちの1人の先生が掲げていた座右の銘で、私もこの言葉が好きです。
化学に限らず、学ぶための行為を能動的に行うとき、「楽しい」という感覚はとても重要だと感じています。自発的に勉強していても、義務的に勉強しているのと心から楽しんで勉強しているのとでは、その成果は全然違うと思います。

高杉晋作の句も恩師の言葉も、心の持ち方が大事であることを教えてくれます。

一方、私は「頑張れ」という言葉があまり好きではありません。無理をさせている、苦痛を強いているというような気持になるからです。「頑張れ」という言葉が元々好きでもないにも関わらず、現実の私は色んな場面で「頑張ってください」と言う言葉を使ってしまいます。言われた相手はどう感じているのだろう…?、と度々思います。

心の持ち方が大事なら、心の持たせ方も大事。
「もっと頑張りましょう」ではなく「もっと楽しみましょう」にしたらどうだろうか?

 


偶然の出会いを楽しみ、活かしていこう!!

2019.10.15 中島 大輔

「キャリアデザイン」という言葉をよく聞くと思いますが、「キャリアドリフト」という言葉はどうでしょうか?
「キャリアドリフト」とは、自分のキャリアについて大きな方向づけをし、節目ごとに次のステップをデザインする一方で、偶然の出会いや予期せぬ出来事をチャンスとして柔軟に受け止めるために、“流されるまま”でいることも必要だという考え方。

自分を振返ってみると、特に若い頃は、仕事が変わる都度、自分がやりたいことと少し違うな?これまでの経験が活きないかな?と不安や不満を感じる場面が少なからずありましたが、その一つ一つに向き合っていくうちに、振り返ってみると大きな気付きや学び、仲間との出会いを得られてきたことに気が付く。

大切なのは「ドリフト(流れに身を任せる)」と「デザイン(節目の振り返りと展望)」の両方があることだと思う。肩肘張らずに日々の出会いや出来事に向き合って、そんな中で自分の言葉を持つことで、「日常」の中で意識が働き、人に伝わり、そして大切な機会に対する感度が高まってくる。

何よりありがたいのは人との出会い。好きな食べ物を伝えると美味しいお店を紹介してくれるように、仕事や人生の中で周囲の皆さまにたくさんの機会をいただいてきた。希望創発センターとのご縁も、そんな感じで池田先生と出会えたおかげ。

魅力的な人、多様な人が集う「希創」の場。少しの工夫をすることで、もっともっと大きな学びを得られるかもしれませんね。

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吉野先生、ノーベル化学賞受賞、おめでとうございます!!

▼高知新聞Webページ
https://www.kochinews.co.jp/article/315162/

 


希望の風を感じて

2019.09.27 彷徨えるヨコハマ人

高知では風の色が違うのである。

須崎の水面を渡る潮風、日曜市のざわめきを運ぶ朝の風、新緑を溶かして大平集落の山間を吹き抜ける風。この風に吹かれていると、都会の喧騒にすり減った五感が解きほぐされていく。事実、高知から帰ってきた後の数日間、見慣れた横浜の景色はいつもより少し彩り豊かに、ご飯も普段より少し美味しくなる。

少子高齢化や一次産業の衰退など、高知が直面する現実は厳しい。国や県が取り組んでも解決が困難な問題に、我々シロウトに何ができるのだろう、とも思う。でも、「希望創発研究会」で答えのない問いに向き合い、地元の人々から話を聞き、「落としどころ」のない議論を積み重ねていくと、そこにふわっと思わぬ風が吹くのが面白い。

ここに来なければ一生出会えなかった人たちと共に学び、自らの立場や常識を越えて一個の人間として語り合う。心が折れそうな堂々巡りの果てに、バラバラだったメンバーの想いがチームの願いと混ざり合い、その中から「あ、これだ!」というイメージが立ち現れる瞬間、視界を覆っていた霧を吹き飛ばす心地良い風が生まれる。
無論、気の利いたアイデア1つでは問題解決の糸口にすらならず、その後も七転八倒が待っているのだが、それでもあの風を感じたくて、懲りずに高知に通い続けている。

ふと気づけば金曜日、記憶も定かでない慌ただしい日々の合間に、高知から吹く風が山を渡り、海を越え、街に届く。
ささやかな、でも、誰も考えつかなかった「何か」が、この研究会から始まり、明日の日本を照らす光になる日を夢想しながら、今月も羽田空港に向かうとしよう。(さあ、今日もカツオ食うぞ!)

 


趣味でムサシの恩返し

2019.09.17 ムサシこと宮本智司

希望創発研究会B、Cで議論している事に繋がるかとも思い、紹介させて頂きます。
ムサシの趣味三本柱は、古い順に、旅(鉄道は日本全線制覇)、ジャズ、太極拳です。
長年続けてきましたが、2年前の現役引退を機に、自分が楽しむだけではなく、周りに「恩返し」をしたいと考えました。

まず始めたのが、所属する瀬谷区太極拳協会での会計、そして、普及委員会の提案、立ち上げでした。
自分が今、健康でいられるのは15年前に始めた太極拳のおかげ、言わば命の恩人です。そして、地域に沢山の仲間が出来ました。その良さを周りに勧めたく、自分から手を挙げました。
写真の「会報このはずく」作成では人事時代のエクセル仕事が活きました。

昨年、地元の旭ジャズまつり実行委員に手を挙げました。年36回の定時後打ち合わせと飲み会、合間の各種行事、そして本番前後の3日間は、炎天下の野外で何と28時間も動き回りました。今年は特に30回目なので大変な1年でした。
どちらにも共通するのは、会社や仕事とは違った達成感ややりがいで、人と人が繋がり、喜ばれ、感謝される醍醐味です。
希望創発センターにもどこか繋がるような気がします。

来年はいよいよ東京オリンピック、パラリンピックの年です。私も横浜市のボランティアクルーに応募し、野球競技を支援します。アメリカ駐在の経験が活かせそうです。
では旅(鉄道)は?これだけは一人密かに悦にいる趣味として楽しみます!

 


人が育つ風土 ~高知~

2019.09.09 ヨシさん

初めて高知を意識したのは浪人時代だったと思う。
浪人時に「竜馬がゆく」を読み、坂本龍馬という人間に興味を持ち、その後関連本を何冊か読んだ。
江戸時代の土佐は、江戸から見たら辺境の地であり、龍馬はその地で何を思い、そして何をしたかったのかを考えることが楽しく、いつか高知に行ってみたいと思いながら受験勉強をしたのが懐かしい。

大学入学後は旅行会社の宣伝に負けて、高知を通り越して沖縄や海外には行ったが、高知を訪れることはなかった。
結局、初めて高知を訪問したのは、社会人5年目であった。
人事部門で勤務していた私にとって、坂本龍馬のような人材が、何故高知から輩出されたのかと考えるきっかけとなったのが坂本龍馬記念館訪問であった。膨大な資料に基づく展示は日本史好きの私にとっては刺激的であり、その後のリーダー教育の中で何度か題材とさせて頂いた。

このように高知との関わりが始まり、約10年前に「すじなし」屋という高知大学の研究会に声をかけて頂き、そして、2018年から客員教員として希望創発センターに関わっている。希望創発センターに集う大学生と企業人が、「人間はダイヤモンドの原石」と言われるように、各々の原石を磨いて光り輝く人材となり、次の日本を担う変革者として成長することを期待している。

 


何気ない1日のなかに

2019.09.02 大嶋 俊一郎

ある晴れた日の朝、いつものように仕事場に向かう階段で、とっても可愛い雨蛙に出会い目が合った。今日はいいことがありそうだと期待しましたが、特に何もない幸せな一日が過ぎて行きました。

しかし、雨蛙との出会いの後 ふと「期待」と「希望」について考えました。
私の心に直ぐ浮かんだのは、小学校の教科書に載っていた(確か「一切れのパン」という話だったと思いますが)話です。

戦時下に主人公がある人から布に包まれた一切れのパンをもらい、苦しい中を逃げて行きます。本当に困った時に、この布をあけるように忠告され、結局主人公はこの一切れのパンを心の拠り所に逃げ切ります。逃げ切って布を開いてみると、そこには一つの木片が入っていました。私自身「えっ!」と思った後に、じわっと心が温まる感覚を想い出します。人はやはり心の生きものなのだと、強く感じたものです。
いつもの何気ない一日の中には、囚われることなく心の目を開いてみると、いろんなことが飛び込んで来るもんだなと。

また、雨蛙は本当に可愛くて子供のころから大好きで愛着があります。でも、「愛着」っていったい何だろうかと、またまた考えてしまうわけです。「愛着」って大切だな~と漠然と感じながら…。

いつもの何気ない一日にしてるのは、どこまでも自分自身であることに気づいたりします。人は、心の在り方にこんなにも左右されてしまうのだと、またまた気づきます。

雨蛙との何気ない出会いが引き寄せてくれた、特別に何もないけれど、これまでどこにもない幸せな1日になった気がします。
「希望」と「期待」と「愛着」について、これからも暫くずーっと考えようと思います。

 

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